ベルリンの街を歩いていると、道路や歩道に、2列に並んだ石畳の線が続いているのを見かけることがあります。ここが、かつてベルリンを東と西に分けていた「ベルリンの壁」の跡です。

このコラムでは、ドイツで暮らす方や、ベルリンを訪れる方に向けて、ベルリンの壁がなぜ造られたのか、どんな形で街を分けていたのか、そして1989年11月9日の夜に何が起きたのかを紹介します。最後に、今も壁の跡をたどれる場所もまとめました。10月3日の「ドイツ統一の日」の背景にある歴史が、より身近に感じられるはずです。

2つのドイツと、1つの街

第二次世界大戦の後、ドイツは西側の国々が支える西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と、ソ連が支える東ドイツ(ドイツ民主共和国、DDR)に分かれました。首都ベルリンも東西に分けられ、西ベルリンは、東ドイツの中に浮かぶ「島」のような街になりました。

連邦政治教育センターによると、1950年代、東ドイツから西ドイツへ逃れる人は後を絶たず、その多くがベルリンを通って西側へ向かいました(連邦政治教育センター:1961年 ベルリンの壁の建設)。働き手が減り続けることを恐れた東ドイツは、人の流れを止めるために、街を物理的に分ける決断をしました。

1961年8月13日、壁が造られ始める

ベルリンの壁財団によると、壁の建設は1961年8月13日の夜中に始まりました(ベルリンの壁財団)。最初は有刺鉄線の柵でしたが、やがてコンクリートの壁に置き換えられていきました。ある朝、通りの向こうに住む家族や友人に、突然会えなくなった人も少なくありませんでした。

全長約155kmの「壁」

ベルリンの壁財団によると、壁の全長は約155km(東ドイツの国境警備隊の記録では156.4km)でした。そのうち約43kmは東西ベルリンの境目に沿って街の中を走り、約112kmは西ベルリンの周りを囲んでいました(ベルリンの壁財団:ベルリンの壁の犠牲者)。

「壁」と呼ばれていますが、実際には1枚の壁ではありませんでした。東側から見ると、内側の壁、見張りの塔、明かりで照らされた監視用の通路、車を止める障害物などが何重にも並び、その外側に、西ベルリンに面した高さ約3.6mのコンクリートの壁がありました。壁と壁の間の帯は、逃げようとする人を見つけるための「死の帯」とも呼ばれました。

1961年8月13日の建設開始、全長約155km(街の中約43km、西ベルリンの周り約112km)、1989年11月9日の開放、1990年10月3日のドイツ統一までを示した年表
図解:J-Connect。ベルリンの壁財団と連邦政治教育センターの資料に基づく(2026年10月29日参照)。

壁で命を落とした人たち

壁を越えて西へ逃れようとした人のなかには、命を落とした人もいました。

ベルリンの壁財団の研究によると、1961年から1989年までの間に、少なくとも140人がベルリンの壁で殺されたり、東ドイツの国境の警備に関わって命を落としたりしました。さらに、ベルリンの国境の検問所で、検査の際に亡くなった人も少なくとも251人いました(ベルリンの壁財団:ベルリンの壁の犠牲者)。

一人一人の名前と人生の記録は、ベルリンの壁記念センターなどで知ることができます。

1989年11月9日、記者会見の「ひと言」

1989年、東ドイツでは、自由を求める人々の抗議が大きく広がっていました。そして11月9日の夜、思いがけない形で壁が開かれます。

連邦政治教育センターによると、その日の夕方、東ドイツの政府の幹部ギュンター・シャボフスキーが、記者会見で、国外への旅行の新しい決まりを読み上げました。この決まりは、本当は後の日から、申請した人に適用される予定のものでした。ところが、記者から「いつから有効なのか」と聞かれたシャボフスキーは、詳しい内容を知らないまま「私の知る限り、すぐに、ただちに」と答えてしまいました(連邦政治教育センター:1989年11月9日)。

この会見はテレビで流れ、西ドイツのニュースは「東ドイツが国境を開く」と伝えました。それを見た大勢の東ベルリンの人々が、国境の検問所に押し寄せました。

ボルンホルマー通りの検問所

人々が最も多く集まったのが、ボルンホルマー通りの検問所です。連邦政治教育センターによると、押し寄せる人々の数があまりに多く、国境の警備隊は手続きや検査をあきらめ、夜11時すぎ、ここで最初に遮断機が上げられました(連邦政治教育センター:壁の崩壊)。その夜のうちに、ほかの検問所も次々と開かれ、人々は壁の上に登って喜び合いました。

ベルリンの壁財団によると、ベルナウアー通りでは、11月10日にかけての夜、最初の壁の一部が取り外されました(ベルリンの壁財団:ベルナウアー通り)。そして約1年後の1990年10月3日、東西ドイツは1つの国になりました。この日が、今のドイツで唯一、国の法律で決められた祝日「ドイツ統一の日」です。

1961年8月から1989年11月まで、壁は28年あまり、ベルリンの街を分けていたことになります。

壁は1枚ではなく、東側から内側の壁、見張りの塔、照明と監視の通路、車止め、西ベルリンに面したコンクリートの壁が何重にも並んでいた構造を示した断面の概略図
図解:J-Connect。ベルリンの壁の構造を簡略化して示した概略図で、場所によって構造は異なります。

今も壁の跡をたどれる場所

ベルリンには、壁の歴史を知ることができる場所がいくつもあります。

  1. ベルリンの壁記念センター(ベルナウアー通り):壁と「死の帯」の一部が当時の形で残され、展望台から全体を見渡せます。建物の窓から西側へ飛び降りて逃げた人々の話など、この通りならではの歴史を学べます。毎年8月13日には、ここで追悼の行事が行われます(ベルリンの壁財団:ベルナウアー通り)。
  2. イーストサイドギャラリー:シュプレー川沿いに1km以上残る壁に、世界中の芸術家が絵を描いた場所です。
  3. 地面の石畳の線:街の中の多くの場所で、壁があった場所に2列の石畳が埋め込まれています。歩きながらたどってみると、壁が街のどこを通っていたかが分かります。

ベルリンへの旅は「ベルリン週末旅行」で紹介しています。明るくにぎやかな今のベルリンの街に、28年間、人々を分けた壁があった。地面の石畳の線をまたぐとき、その重さを少しだけ思い出してみてください。

参考情報(2026年10月29日参照)

本記事は公開情報をもとにした歴史の紹介です。犠牲者の数などは、研究によって数え方が異なる場合があります。

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